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「神社と神道の歴史」第3回 著:白山芳太郎

神社と神道の歴史(第3回)

 

空中楼閣があって倒れたという伝承は、その楼閣を必要とする祭祀から、それを必要としない祭祀になったという意味(つまり籠(この)神社という祭祀施設が誕生し、在来の祭祀施設が不要になった)。
そして縄文の空中楼閣への思いは、いつしか『風土記』の「天橋立(あまのはしだて)」伝承となって残ったのである。

籠神社は、その社家(海部(あまべ)家)に「海部(あまべ)氏系図」(国宝)という古い系図が伝わっている神社である。
「竪系図(たてけいず)」という形式の系図で、紙を縦につなぎ、中央に薄く縦に棒線を引き、棒線の上に「始祖彦火明命(ひこほあかりのみこと)」以下直系の人びとの名を記したものである。

 


(国宝 海部氏系図 海部穀成氏蔵 Wikipediaより)

 

『古事記』『日本書紀』によると、イザナギノミコトは、その妻イザナミノミコトとともに「天御柱(あめのみはしら)」という柱の周りをまわって「島生み」をされたとある。
イザナギノミコト、イザナミノミコト2神は、1本の柱の回りをまわったのであろうか。
真脇のように複数本の柱で構成されたサークルの周りを回ったと考える。

各地から出土のストーン・サークル(環状列石(かんじょうれっせき))も同様の祭祀用の役目を果たしたものであろう。
ストーン・サークルは、縄文中期(後半)~縄文後期のものが多く出土しており、2重~3重に石を丸く並べ、中央に直径5mくらいの円形広場(方形の場合もある)がある。
最古のストーン・サークルは、長野県の阿久遺跡で、縄文前期のものである。
よく知られるストーン・サークルは縄文後期のもの。
大湯など秋田県、青森県、北海道から出土し、直径30mくらいのものである。

 


(秋田県大湯のストーン・サークル Wikipediaより)

 

真脇の場合は、それをウッド・サークルとして造ったものである。
真脇遺跡一帯が湿地のため、柱の根が残り、その材質と太さによって構造計算され、巨大な祭祀用掘立柱構造物であるとされている。
諏訪大社(長野県)に6年に1度、「御柱(おんばしら)祭(さい)」という4本の柱を立てる神事がある。
巨大な柱を山から伐り出してきて、上諏訪(前宮と本宮)と下諏訪(春宮と秋宮)で、それぞれ4本ずつの柱を立てる。

 


(諏訪大社 下社春宮の一の御柱 谷口勝彦氏撮影)

 

これは縄文期のウッド・サークルを立てる神事のおもかげを今に伝えたものではないか。
神社に向かって左手前を一の御柱、左手奥を二の御柱、右手奥を三の御柱、右手前を四の御柱と言い、左手前から時計回りとなっている。
それをつなぐとサークルになる。
4本の「柱」の中央に、いまは本殿が建てられているが、もともとの姿は本殿がなかった。
本殿が建てられた後も4本柱を立てる神事として残り、今に至っている。

 


(諏訪大社御柱祭 Wikipediaより)

 

天と地を行き来する天橋立(あまのはしだて)や、三内丸山の6本柱、真脇の10本柱と同種のものであろう。
他地域には稲作が伝わり「稲作祭祀」へと移行したのに対し、諏訪は、寒さに強い品種の稲が開発されるまで、稲作が行われていなかった。
そういう高冷地なるがゆえに「稲作以前の祭祀」が残ったのである。

 

ところで、伊勢神宮では正殿(しょうでん)の床下に立てる柱を「心(しん)の御柱(みはしら)」と呼ぶ。
20年に1度の遷宮における最初の祭り「山口祭」が終わると「心の御柱」の用材を伐るための祭りがあって、それを「木本祭(このもとさい) 」という。
「木」の古い発音が「こ」であり「このは」「このみ」「こっぱ」「こもれび」など、「こ」という古代語を今でも使っている(「こ」の発音は「き」に変化するが、変化する以前に、これらの語が誕生していて、密着度の強さから「きのは」「きのみ」などの新語を生み出せなかった)。

次いで「心御柱祭(しんのみはしらさい)」を行って「心の御柱」を立てる。
そして次の遷宮までの間、旧正殿のあったところを更地(さらち)にする。
そのような敷地を「古殿地(こでんち)」と呼ぶが、その「古殿地」の旧正殿の「心の御柱」のあった場所に「覆(おお)い屋」を建てる。
それが「心の御柱の覆屋(おおいや)」である。

 


(伊勢外宮「心の御柱」の覆屋(おおいや):白山芳太郎撮影)

 

諏訪大社に、もう1つの不思議な神事がある。
「御頭祭(おんとうさい)」と呼ばれる。
それは、鹿の頭を神饌(しんせん)として供える神事である。
この「御頭祭」も「御柱祭」とともに狩猟採集時代の祭祀を伝えたものであって、縄文時代のご馳走としての鹿の頭を供える。

その祭神は「建御名方(たけみなかたの)神」である。
「国つ神」の中心「大国主(おおくにぬし)」の子で、 父や兄(事代(ことしろ)主(ぬし))が考える「国譲(くにゆず)り」に反対した神である。
「天つ神」としてのニニギノミコトが地上に降臨(天孫(てんそん)降臨(こうりん))する際、それに先立って「大国主」に「国譲り」してくれないかと交渉するため、やってきた神の名を「武(たけ)御雷(みかつちの)神」という。
その神と戦ったのが、上述の建御名方(たけみなかたの)神(南方刀美(みなかたとみの)神、建南方(たけみなかたの)神などともいう)である。
しかし、負けいくさとなって、出雲から逃げ出す。
母(奴奈川姫(ぬなかわひめ))の出身地「糸魚川」へと向かったようである。

 


(糸魚川市の「奴奈川姫・建南方母子像」 Wikipediaより)

 

糸魚川市にはフォッサ・マグナが走り、その地は日本の東西の境界線の北端である。
世界的に珍しいヒスイの産地で、その地の豪族が、逃げてきた建南方の祖父であり、彼を南に逃がしてやる。
南に向かう道として今の国道148号線がある。
それはフォッサ・マグナでもあり、そこを南進した。

「建御名方(たけみなかた)」とも書くが、意味は「建南方(たけみなかた)」であって「建」は「たけだけしく」ということを意味する形容詞で、たけだけしく南に進むというのが「建(たけ)南方(みなかた)」の意味である。
すると長野県白馬村に到着する。
白馬村に「嶺方(みねかた)」というところがある。
「嶺方(みねかた)」というのは「南方(みなかた)」がなまったもので、そこに「嶺方(みねかた)諏訪(すわ)神社」(旧県社)がある。
建南方がここを通ったため「嶺方諏訪神社」というのであろう。
そこから上田市の「生島(いくしま)足(たる)島(しま)神社」(旧国幣大社)に向かったと思われる。
同社から真南にむかって「大門(だいもん)街道」が走っている。
「大門」は諏訪の大門の意で、その南端「大門(だいもん)峠」を越えたところが、諏訪大社(下社)である。

 

 
(諏訪大社 下社秋宮本殿 谷口勝彦氏撮影)

 

ところで「生島足島神社」の境内に諏訪の神が「二宮」として祀られている。
「建南方」は諏訪に向かう途中、生島足島神社の境内を通るにあたり「生島足島の神」に粥(かゆ)を献じたと伝える。
同社境内において「諏訪の神」が南方に向かう姿で南面して建ち、「生島足島の神」がそれを出迎えるかたちで北面していて、しかも「池の中」にある。
「池の中」ということの意味がよくわからない。
防御のためか、抵抗しませんと言う意味か、不明である。

池の中の神は「島」であり、明治まで本殿がなく、島を「神体」としてきた。
「諏訪の神」は社殿があるのに「生島足島の神」は、本殿を持たない神である。
今は「島」の上に本殿が建っている。
それでもなお大床(おおゆか)(本殿のなかの神体を安置する床を「大床」という)を持たない神社である。
同社正面に島に渡る橋がある。
「神橋(しんきょう)」と称し、祭りの時に神が渡る橋である。
人は横の仮橋を渡る。

 


(生島足島神社 Wikipediaより)

 

この後「建南方」は、さらに南へ進む。
そこが諏訪である。
諏訪の地に到着した時、後ろから追い付いてきた武(たけ)御雷(みかつち)に降参する。
諏訪を出ていかないことを条件に、死を免れる。
その後、約束を守り、諏訪を出ていかない神である。

 


(諏訪大社 下社春宮 谷口勝彦氏撮影)

 

諏訪にそのような神が祀られ、父の神(出雲の神)との関わりを感じさせる「しめ縄」(天つ神を祀る伊勢神宮には「しめ縄」がない)が張られている。

 


(出雲大社 谷口勝彦氏撮影)

 

「諏訪の神」と「出雲の神」の親子関係は、このような離れたところに残る「しめ縄」の共通性からも知られる。
出雲大社に本殿が建てられる前の姿は不明であるが、諏訪大社の御柱(おんばしら)のような祭祀施設があったのではないか。

 


(出雲祭 平成29年5月14日 白山芳太郎撮影)

 

そういう記憶を基礎にしていたため、太古の出雲大社(後述)が高層神殿となったのではないか。
出雲大社境内から、現本殿の2倍の高さだった時代の3本柱をしばった柱根が出土した。
平成12年から13年にかけて発掘調査があり、出土した3本柱(宇豆柱(うずのはしら))により、出雲大社が高層神殿であったことが立証された。

 


(出土した古代出雲社の柱 白山芳太郎撮影)

 


(柱の出土地点 谷口勝彦氏撮影)

 

さらに古い太古の出雲大社が建築学の立場から復元されている。
記紀を参考にすると「国譲り」の条件として「天つ神の宮殿」と同じものを建てるよう要求され、その要求に従って建てたとある(ここにも「天つ神祭祀」と「国つ神祭祀」の習合があり「天つ神祭祀」の4部屋構造の居住空間と「国つ神祭祀」の空中楼閣の習合)。
「出雲の国譲り」とは、そのような無理難題の条件下、交渉成立にいたったのである。

 


(太古の出雲大社 Wikipediaより )

 

現在の出雲大社は高さ24m(伊勢内宮は12,5mで、約2分の1)である。
太古の出雲大社はその4倍の96mであった。
まさに空中楼閣である。
平安時代の出雲大社の高さは現在の2倍の48mであった。

平安期の『口遊(くちずさみ)』という文献に、当時の三大建築の暗記法を記して「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」とある。
平安京の大極殿(三郎(さぶろう))より高い和州(わしゅう)(大和)大仏殿(二郎(じろう))をしのぐ「太郎」が出雲大社だというのである。
『東大寺要録』所引「大仏殿碑(だいぶつでんのひ)」によると、当時の大仏殿は「29丈(85.8m)奥行き17丈(50.3m)高さ126尺(37m)」であった。
この高さ37mをしのぐ48mというのが、平安期の出雲大社である。
これに対し「天つ神の祭祀」としての伊勢神宮は、古来、高さ12,5mであり、高さを競わない。
天つ神の祭祀には空中楼閣を必要としないのである。

日本の稲作のルーツとみられる長江下流域(浙江(せっこう)省の杭州湾付近)の遺跡や、その上流の苗(ミャオ)族の棚田では空中楼閣が出土していない。
「稲作祭祀」は空中楼閣を必要としないのである。

 


(中国貴州省、苗族の棚田 Wikipediaより)

 

第4回に続く

 

白山芳太郎 プロフィール

昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。

おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。

 

 

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