「神社と神道の歴史」第9回 著:白山芳太郎
神社と神道の歴史(第9回) 著:白山芳太郎
平安時代における神社と神道の展開について見てみよう。
前代には神道と仏教が習合し、 神社の神前で読経が行われたり、神社の附属の寺として神宮寺が創建されたりしたが、 当代になっても前代と同様、神宮寺創建は続いた。
延暦20年(801) の奥書のある 『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』によると、 天平宝字7年(763)のことであるとして、 多度の神 (桑名市多度大社の祭神) が託宣して 「吾は宿業(しゅくごう)によって神となっているが、 早く仏道修業により神の身を離れ、仏となりたい。 その因縁を得られないで困っている。 よって修行の場を設けてほしい」 と願ったとある。
ここに神の修行のために仏堂が建てられたとあるが、 そのような神の修行の場が「神宮寺」であるという考えが生まれた。
(多度神宮寺伽藍縁起並資財帳 多度大社ホームページより)
すなわち、 奈良時代から平安時代にさしかかる頃、 仏は神より上位に位置するとされ、 神は人より上位に位置するが、人と同じく煩悩に悩む衆生とされた。
その煩悩から脱却するために神は仏による救済を求めているという思想が流行し「神宮寺」が創建されることとなった。
こうした「神宮寺」は、 多度神宮寺をはじめ、 伊勢神宮には伊勢神宮寺が建てられ、そのほかにも、 越前の気比神宮には気比神宮寺、常陸の鹿島神宮には鹿島神宮寺が建てられた。
一方、 高野山金剛峯寺や、 比叡山延暦寺を創建するにあたって、丹生都姫神や日吉神の助力が必要であるとされた。
上流階級の人びとは仏教を積極的にとり入れ、その教義に基づき、仏は神より上位に位置するとし「神宮寺」を創建して差し上げねばならないという思想まで生まれた。
しかし、 庶民の間では、 神道はなお大きな位置を占めていて、 高野山や比叡山を開くにあたっても、神の許しを得た上でないと行ってはならないとする思想は変更できなかった。
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「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想
かくて「神」の観念は少しずつ変容し始め、平安中期になると『石清水八幡宮文書』 の中に引用された「筥崎宮に法華経一千部を奉納することを許す」という太宰府からの 「解(げ)」 という上申文書にみられるように、神と仏は同一であって、 本地はインドの仏であるが衆生救済のために迹(あと)を日本に垂れたとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想が生まれた。
なお、この時代はたびたび政変があったが、 その際、 讒言(ざんげん)(告げ口のこと)にあって、地位を退けられるというようなことが発生し、恨(うら)みをいだきつつ亡くなっていった人びとがあった。
その後、何らかの災害が発生すると、 その人びとの怨みの霊のたたりであるとされるようになり「 怨霊(おんりょう)を祀る」ということが行われるようになった。
すなわち「御霊会(ごりょうえ)」である。
『三代実録』の貞観五年 (863) 5月20 日の条に記されている「京都の神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)」では、早良(さがら)親王・伊予親王・ 藤原夫人(ぶにん)・橘逸勢(はやなり)の霊が祭られた。
このような怨霊信仰としての「御霊(ごりょう)信仰」は、 この頃から拡大していった。
特に、延喜3年 (903) 菅原道真が藤原時平の讒言(ざんげん)によって大宰権帥(だざいのごんのそつ)への降格人事が行われ、 その地で与えられていた官職(九州全土を支配する役所である大宰府の副長官)に就任することがないまま、榎寺という寺に幽閉されつつ亡くなるという事件が発生した。
すると、都において天変地異が起こって道真の霊のたたりであるとされるようになり、道真とかかわりの深い北野の地でその霊を祀ることとなった。
これが、北野天満宮である。
かかる「御霊(ごりょう)信仰」は、 仏教の「罰(ばち)」の観念と 神道の「たたり」の観念を結びつけたものであった。
この平安時代の延暦23年(804)のことであるが、伊勢神宮より『皇太神宮儀式帳』および『止由気宮儀式帳』が神祇官に提出されている。
伊勢神宮の鎮座や社殿の状況、神事、遷宮、別宮などの付属の社、 年中行事などのことが記され、伊勢神宮の諸制度における出典とされるものとして書きあげられた。
そのような文献が残されていることからも、当時、神祇制度がかなり整備されたことが知られる。
『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』 によると「神封(しんぷう) 4870戸」と記されており、全国の神社の経済的状況を国家が支援していたことが知られる。
伊勢神宮に対する斎(さい)王(おう)制度に加えて、この時代になると、京都の上賀茂神社・下鴨神社を王城鎮護の神とし、 賀茂両社に対し伊勢神宮と同様の「斎院(さいいん)」という制度を定め、皇女を派遣するという制度が定められた。
この斎院の開始は、弘仁元年 (810)のことである。
人びとの崇敬を集めた神社が 「一宮」
延長5年 (937) に成立した『延喜式』によると、当時の神祇制度として毎年の恒例の祭祀と臨時の祭祀、 伊勢神宮、斎宮、斎院、大嘗祭、 祝詞(のりと)、さらに祈年祭の日に幣帛を奉る全国2861社に関する規定が定められている。
この頃、 神社に位階(当初はその位階授与に端を発する位田を与えられたが、まもなく位の上昇による位田の増加が不可能となり、在来の所領を保証する制度となった)を奉ったり、 有力神社の修理のため、国税を用いたりするというようなことも行われた。
全国の有力神社を国家が支援していた時代であり、 そのことが比較的徹底された時代であった。
しかし、 それは神社を国家と結びつける一方、神祇信仰の自然な宗教的発展をはばむことでもあった。
平安中期以降、 律令制は崩壊し、それとともに諸社に対する神祇官や国司からの幣帛供進(へいはくきょうしん)がとだえ、都周辺の社会的地位のある神社に限り国家の大事があるごとに幣帛供進を行うこととなった。
それも最初のうちは十六社であったり、十九社であったりし、数が定まらなかったが、 永保元年(1081)以降、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上、大和、広瀬、竜田、住吉、日吉、梅宮、吉田、広田、祇園、北野、丹生、貴船の二十二社と定められた。
「二十二社の制」と呼ばれるものであって、 室町中期まで続けられた。
それとともに、 これらの神社に対し、庶民も遠隔地参詣するようになっていった。
諸国において朝廷や国司が公的に定めたものではないが、 その国内で庶民の崇敬の篤い神社を 「一宮(いちのみや)」とする制度が始まった。
『今昔物語集』(12世紀前半成立)に「今ハ昔、周防ノ国ノ一宮ニ玉祖(たまおや)ノ大明神ト申ス神、在(ま)ス」とある。
また伯耆国一宮「倭文(しどり)神社」出土の経筒(康和5年《1103》の銘あり)に「山陰道伯耆國河村東郷御坐(おわします)一宮大明神」とある。
12世紀初頭には 「一宮」 が成立し、 諸国それぞれで選ばれ、 人びとの崇敬を集めた神社が 「一宮」 であった。
その頃、 全国の神社に対し、 それぞれ生活地域の氏神など、密接な関係にある神社に参拝するとともに、 住まいする地域一円での有力神社に参拝しようとしていたことが知られる。
国々に 「総社」 が誕生するのも、この時期である。
「総社」 とは、 多くの神社を一ヶ所に総(す)べ祀るという意味であって、当該一国の全神社を一社に勧請する一国の総社、一氏族が崇敬する神を一社に勧請する氏族の総社、 あるいは寺院内でその寺に関係する神を一社に勧請する総社があった。
このうち、一国の総社は、 国府に近いところに勧請された。
それは、国司が任国に赴任する際、国司奉斎社を巡拝する制度があったが、時代がくだると、巡拝制度に変更を加え、国司が業務を行っている国衙の近くの一社(在来の古社を利用してそこへ神々を集めるケースと、新たな総社を創建して神々を集めるケースがあった)に勧請(かんじょう)し、参詣した。
それが、総社の始まりであり、国司業務の簡略化であった。
平安末期の熊野参詣
この時代には、 神道は仏教と習合して説かれ、 一部には、神は仏より下位にあって神も仏教修行により菩薩となり、仏となれるという思想が生まれたが、 一般の人々の間では理解を得られることなく、神と仏を同体とする「本地垂迹思想」が生まれ、 神仏を同体とみる思想が前説を淘汰するようになっていった。
もともと「本地垂迹」という考えは『法華経』のなかにある思想である。
「絶対釈迦」がいらっしゃるのに対し、それとは別のものとして、現実に現われて民衆を救済してくださる「現実釈迦」がいらっしゃって、その両者は一体であると説く思想である。
前者を「本地」後者を「垂迹」と呼ぶものである。
この思想を援用して、仏と神との関係も同様であるとする立場から立てられた神仏習合説が「本地垂迹思想」である。
在来の説である神を民衆と同じ立場として仏の下位とし、民衆が修行して仏になりたいと願うように神も修行して仏になりたいと願うに違いないとする思想は一般の人びとにとって首をかしげていたのであって、こちらに一本化されるようになった。
平安中期に成立する神仏を同体とみる「本地垂迹思想」は前説が一方的でひどかっただけに人々の歓迎を受け、受け容れられていった。
平安後期になると、それは、神道と真言宗を結びつける「両部(りょうぶ)神道」ならびに神道と天台宗を結びつける「山王(さんのう)神道」へと展開していった。
「両部神道」は、 真言密教の金剛界と胎蔵界の世界を神々の世界にあてはめ、なにごとも「両部」(陰陽・男女・内外など全てにおいて2つのものから成るという説)という考えで説明できるとする二元論哲学であった。
一例をあげると、この説に基づき、伊勢神宮は2つの宮で構成されるが、内宮は「胎蔵界」の大日如来であり、外宮は「金剛界」の大日如来であるという説明を行うものであった。
山王神道は「山」と「王」の2字は、縦3線を横1線でつらぬく文字と、横3線を縦1線でつらぬく文字からできた熟語であり、それは天台宗の「三諦即一(さんたいそくいつ)」という思想であるとし、日吉(ひえ)社と天台宗の教理を結び付けて説くものであった。
平安末期には、熊野本宮・熊野新宮・熊野那智の熊野三山に対する信仰の展開がみられた。
熊野は、修験(しゅげん)の修行の地であるが、天皇は幼少であるため熊野への旅行は無理であったが、天皇が位を譲って上皇となられた後、実質的な支配を維持されていた宇多上皇が熊野に参詣されたことによって、人びとは熊野に注目した。
特に、熊野の地が都の南方であることから『華厳経』が記している「観音の住む浄土」であるとされるようになり、寛治4年(1090)の白河上皇の熊野参詣が行われた頃より人びとの熊野参詣が盛んになり、その様子は蟻の行列のようであった。
そのため、この平安末期の熊野参詣を称して「蟻(あり)の熊野詣」と呼んだ。
(熊野本宮大社 谷口勝彦氏撮影)
第10回に続く
白山芳太郎 プロフィール
昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。
おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
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これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
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