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「神社と神道の歴史」第10回 著:白山芳太郎

神社と神道の歴史(第10回) 著:白山芳太郎

鎌倉~室町時代における神社と神道の展開を見てみよう。

鎌倉時代になって政権は武家の手に移った。
それとともに神道も大きく変化した。
律令時代、律令制のもとで神祇制度が確立され神道が尊重されたが、 一面からみれば神道の祭祀儀礼を形式化するばかりであって、 一般の人びとの信仰心を満足させるものとはいえなかった。
それに対し当代は人びとが自分を自覚し、 信仰をとりもどした時代であったといえよう。

そのような動きのあった当代における庶民の信仰は、 源頼朝によって刺激が与えられた。
頼朝は、 平治の乱で捕えられ、 永暦元年 (1160) に伊豆に流された。
時に14歳であった。
その後の20 年を流人生活で暮らしたが、 当時の風潮の中で頼朝は観音信仰を有していた。
ところが治承4年 (1180) の挙兵後は、鶴岡八幡宮、伊豆山権現、箱根権現、三島大社など、居館(鎌倉幕府)から比較的近くにある神社を崇敬した。
一方、 遠隔地では、伊勢神宮に特別な崇敬心を示した。
伊勢神宮に対して御厨 (みくりや) を寄進し、 神領の安堵 (あんど)について特別な意を用いている。

 


(伊勢神宮・外宮)

 

神領を侵略しようとする行為や、神領の存在を危うくしようとする行為があった場合、 ただちに取り調べるとともに、 それが部下である場合であっても容赦しなかった。
その行為が頼朝の処理しがたい公家の場合は、 裁決を上皇に願い出てはいるが、武力行使を最終的手段にするという態度であり、伊勢神宮に有利な案を示している。
そのようにして伊勢神宮の経済的安定を計った頼朝によって伊勢神宮は保護された。
部下の御家人たちも頼朝にならって神領を寄進することとなり、 神領が東海、関東、甲信越の各地に広がっていった。
同時に、それら神領内に住む人々を中心に、伊勢信仰が拡大していった。
これは、 前代まで個人的な祈りを禁止し、 天皇以外の者が幣帛を奉ることのなかった伊勢神宮を、 一般の人々に近づける結果となった。
前代末期、 人びとの大きな信仰を集め、 平清盛もあつく信仰した熊野三山に対し、 頼朝はそれほど関心を示さなかった。
ところが伊勢神宮に対しては、 日本第一の宮と位置付けるとともに特別な崇敬心を示した。
それが当代以降の庶民の伊勢信仰に大きく影響し、 さらに神宮祠官の自覚を促し、後述する伊勢神道成立へと進捗させた。

また頼朝は、 神国思想を鼓吹したことにも注目しなければならない。
九条兼実の日記 『玉葉』 によると、寿永2年(1183)源頼朝が後白河法皇に奏上した政策の一つとして神仏関係の政策を記したなかに 「右、 日本国者神国也」 と記している。
それとともに、頼朝の時代には人々の信仰にかかわる大きな事件が起きた。
三種神器に関する事件であった。
文治元年(1185) 平家が滅亡する際、 安徳天皇の入水(じゅすい)とともに、皇位継承の御しるしとされていた神器の一つ宝剣が海中に水没した。
このことは、 当時の人々に大きな波紋を投げかけ、 改めて皇位継承の御しるしの尊さを認識させた。
貞永元年(1232)北条泰時は、御成敗式目の第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」と記し、政策基調の第一に神事優先を唱っている。
また伊勢神宮の祠官たちによって、 伊勢神道が提唱された。
この神道を代表する文献として『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本紀』『造伊勢二所太神宮宝基本記』『倭姫命世記』などが著され、これらにより伊勢神宮の権威や神器の尊さなどが強調された。

 

室町時代になると、当代の政治の中心にある室町幕府は、 当初、鎌倉幕府の神祇行政を踏襲し、寺社奉行を置いて社領安堵や社殿修理につとめた。
一般の人々の間では、 神仏習合的な重層信仰が展開し、 諸社の勧請が多くなされた。
前代に描かれた 『北野天神縁起絵巻』などの縁起絵巻が広められ、 縁起神道が多く説かれた。

 


(北野天神縁起絵巻 重要美術品 根津美術館所蔵)

 

ただし室町幕府は鎌倉幕府ほどの政治力をもつことができず、 神祇行政が乱れた。
朝廷も次第に衰微し、天皇即位儀礼としての大嘗祭がとだえることとなり、 二十二社の制も当代中期には行うことができなくなり、 伊勢神宮のみ奉幣されることとなっていった。
伊勢神宮の20年一度の式年遷宮は、 この時代に式年(定められた年の意であって定められた年が20年)ごとの建て替えが困難となり、 内宮は後花園天皇の寛正3年 (1462) から正親町天皇の天正13年 (1585) まで、 外宮は後花園天皇の永享6年 (1434) から正親町天皇の永禄6年 (1563) までの間、 式年遷宮が行われなかった。
伊勢神宮の斎王制度も、 後醍醐天皇の時代に祥子内親王が卜いで選出(これを卜定(ぼくじょう)という)されたが、群行(ぐんぎょう)(実際に赴任すること) は中止され、 これ以降全く行われず、 制度として崩壊した。
このような幕府による、 また朝廷による神祇行政が、 戦乱のくりかえされる中、充分に行われない時代であった。

 

各神社の神領も、 多く略奪され、 神社は疲弊した。
しかし、 庶民は乱世であるだけに諸社に頼って信仰を寄せ、 重層的な神仏習合を完成させていった。
そのようななか、 伊勢神道を継承しつつ反本地垂迹説を主張したのが、吉田兼倶であった。
兼倶は、 神祇官の官僚である卜部氏の出身であり、卜部氏は平安時代には松尾大社の社務を行い、 しばらくして平野神社や吉田神社の社務を行っていた。
また鎌倉期には、 その一族から『釈日本紀』を著した卜部兼方が出て、 古典研究の家として知られていた。
兼倶は、 そのような卜部氏の出身で、室町中期に唯一元本宗源神道という神道説を唱え、 神社界に大きな影響力を持った。
兼倶の主張する神道思想は、 祖先の名に託して著した『唯一神道名法要集』『神道由来記』兼倶自身の名で著した『神道大意』などにみられるもので、そのうちの『唯一神道名法要集』によると、 当時の神道は大きく分けると本迹縁起(ほんじゃくえんぎ)神道、 両部習合神道、 元本宗源(げんぽんそうげん)神道の3つに分けられるとするとともに、 元本宗源神道は卜部氏の祖と称する天児屋根命の神託だとし、 唯一絶対の神道だとする。
そして、仏教がものごとの花や実、儒教がものごとの枝や葉であるのに対し、 神道はそれらの根であると称した。
さらに兼倶は神を、 天地に先立って天地を定め、 陰陽を超越して陰陽を感じる存在だとし、 天地においてはこれを「神」といい、 万物においてはこれを「霊」といい、人においてはこれを「心」というと称した。
そして神は即ち霊、 神は即ち心であると説き、 神道とは心を守る道であり、その心を守るため、人びとは内清浄(ないしょうじょう)といって心の清浄につとめるとともに、外清浄(げしょうじょう)即ち身体的な清浄につとめるべきであるとした。
そのようにして兼倶は、 仏教を排斥しながらも、 仏教儀礼をとり入れた 「神道護摩(ごま)」 を創作し、それが仏教の護摩に先立つもの(確証がなく、むしろ仏教儀礼の流用)だと称し、さらに 「神道加持(かじ)」なるものを発明して太古以来のものだと称した。
また、その神道伝授の方法として密教的方法を用いている。
兼倶の説いた思想や方法には、 確かに独自性はあるが、 基礎に伊勢神道を継承し、 その上に密教をとり入れ、 当時の人々の心の欲するところをくみ取りつつ立論して行ったことが知られる。
そのような神道思想を確立した上で、国の神祇行政が有名無実化していることから、自らを 「神祇管領勾頭(じんぎかんれいこうとう)長上(ちょうじょう)」 という地位にあると称し、全国の神社を吉田家が支配する体制に成長させる基礎を固めた。

 

第11回に続く

 

白山芳太郎 プロフィール

昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。

おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。

 

 

 

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