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「神社と神道の歴史」第11回 著:白山芳太郎

神社と神道の歴史(第11回) 著:白山芳太郎

江戸時代における神社と神道の展開について見てみよう。

戦国の争乱期、 神社は荒廃した。
特に織田信長によって寺とともに焼打ちされた神社があったが、 信長はその戦乱が治まるとともに伊勢神宮の復旧を計ったほか、 各地の神社の復興につとめた。
豊臣秀吉、 徳川家康も、 社会が落ち着くと神社の復旧にあたった。
家康は、 天下統一ののち、 宗教政策に対し意を用いた。
家康自身、天台宗、 浄土宗、 臨済宗について学ぶとともに、 神道を学んだ。

吉田兼見の弟(梵舜)を招いて吉田神道を学び、 吉田神道の奥秘(おうひ)を伝授されるまでにいたっていた。
家康は元和2年(1616)4月、 本多正純らに遺言し、 死後みずからを神葬祭にして久能山で葬り、芝の増上寺において葬儀を行い、 三河の大樹寺で位牌を祭り、 一周忌が過ぎると日光に祠(ほこら)を建てて神として祭るようにと命じている。
遺言どおり、翌年の4月、 久能山にある家康の遺骨を日光に遷して祀った。
家康は前述のように梵舜から神道について質問を重ねていたが、なかでも藤原鎌足を祀る談山権現(妙楽寺)と北野天満宮に関する質問をしている。

 


(談山神社)

 


(北野天満宮)

 

それは、 藤原鎌足と菅原道真が逝去後ただちにではなく、 ある期間を経て神となったことに関心があってのことと思われる。
一周忌が過ぎたころ、 すなわち、ある時期を経た後、神として祀られることを、それらの例にならって望んだものとみられる。
当代には、 伊勢神宮と日光東照宮にのみ、 勅使が毎年朝廷より派遣された。
そして日光東照宮の分霊が、御三家をはじめ各藩に勧請され、 各藩の武士たちによって東照大権現として信仰された。

 


(日光東照宮)

 

また、幕府の文治政策や諸藩の学問奨励策などの結果、 藩校や私塾が発達し、神道研究が活発に行われるようになった。
儒学は、 前代、もっぱら五山の僧、つまり臨済宗の僧によってなされていたが、 当代に入ると仏教から離れて独自に学ばれるようになった。
儒学者は仏教を嫌って神道と結びつき、 神道と儒教の道は一致するという儒家神道を提唱した。

こうした説は、 藤原惺家、 林羅山らによって説かれたが、 彼らは本地垂迹説を否定し、 唯一宗源と称していた吉田神道にも仏教色のあることから、 これを排斥した。
吉川惟足は、 吉田神道の伝授をうけたが、 その仏教色を嫌い、 朱子学と結びついた一派を唱えた。
すなわち、 吉川神道である。
山鹿素行も、 その儒学の系統の上に、 神道は聖教であり、 上に天皇を仰ぎ、 君臣の分を明らかにするところに根本があると唱えた。
このように江戸時代を通じて儒学が盛んになるとともに、 神道は儒学諸派と結びつき、 道徳的側面が強調される神道となった。

前代末、廃絶したかのようになっていた伊勢神道を、 度会延佳(のぶよし)(1615~1690)たちは復興させた。
延佳は、 儒仏を排して本来の姿に帰ることを主張し、 平易な言葉で神道を説いた。

中世の伊勢神道を「前期伊勢神道」と呼ぶのに対し、 江戸期の伊勢神道を「後期伊勢神道」と称する。
山崎闇(あん)斎(さい)は、 前述の吉川惟足、 度会延佳から神道を学び、 垂加神道と呼ばれる一派をおこした。
この神道説は徹底した排仏と道徳主義を主張した。
門下に正親町公通、 出雲路敬(たか)直(なお)らを出し、 幕末の尊王運動にも影響を与えた。

江戸前期の儒家神道・吉川神道・垂加神道に対し、 江戸後期になると日本古典にあたり直し、儒仏渡来以前の神道に復古しようという復古神道が発生した。
その中心が本居宣長と平田篤胤であった。
本居宣長は、享保15年(1730)伊勢国松坂本町に生まれ、家業(木綿問屋)をつぐべく修業していたが、母(かつ)は商才のない宣長に医者の道を選ばせた。
宣長は京都に出て儒学を堀景山に、医学を武川幸順に学び、京都から帰ると、小児科を中心に大人の内科もみる町医者を開業した。

 


(本居宣長61歳自画像)

 

そして歌会や『源氏物語』の勉強会も主宰し、そのような機会や著書を通じて、人間にとっての感動の中心は「素直」に感動する心であると唱えた。
当時は、儒学が盛んに行われ、仏教もさかんであって、それらによるかぎり「素直」に感動する心を表に出せない時代であった。儒仏は「素直」を肯定しないのである。
親の死に遭うと、涙を流すことなく、じっとこらえていることが儒学に基づく立派な態度であるとされ「素直」に悲しむことが許されなかった。
仏教はそれに追い打ちをかけるようにして、この死は「極楽往生」を遂げたのであり、悲しむ必要のないものであるという仏説による説法を受けねばならならなかった。
そのような中で、宣長は「素直」に喜び「素直」に悲しむことが大切であると述べた。
重苦しい封建制社会の中で、人びとがどう生きていったらよいのか迷っていた時代に「素直」に生きようと述べるとともに「まごころ」の尊重を説いた。
日本人のほんとうの心からわざとらしさを除き、直感的に感じる心を持つことが人間の生きて行く喜びになると語りかけた。
このような宣長の考えが一気に広まり普及していった。
宣長のあとをうけた平田篤胤によって、 祭政一致が強調され、 また宗教性が加味された。

この時代、伊勢参宮が全国的に流行し、 慶安3年(1650)以来、 約60年ごとの「お蔭参り」が発生し、 膨大な参詣人があった。 このほか、 京都の伏見稲荷、 讃岐の金比羅社、 安芸の厳島社、 近江の多賀社、 尾張の津島社などに、 庶民の崇敬が集まった。
江戸の山王社、 神田明神、 京都の北野天満宮、 祇園、 大坂の天満天神、 住吉社、 長崎の諏訪社も庶民の信仰を集めた。
上方と江戸で稲荷社が数多く勧請され、 さらに全国へと広まったのもこの時代である。
当代には公家や武士、社家といった有識者だけでなく、庶民を対象にわかりやすく神道を説いた書やそのように説く神道家が現れた。
橘三喜(みつよし)は江戸浅草で神道講釈を開始し、また全国の一宮に参詣し『諸国一宮巡詣記』を著した。
増穂残口(ますほざんこう)は関西を中心に神道・儒教・仏教三教の思想的一致を説き、国家観念を喚起した。
井上正鉄(まさかね)は三種(みくさ)の祓を説き、神道禊教の創始者となった。
梅辻規清(うめつじのりきよ)が唱えた烏伝(うでん)神道も陽明学や禅を交えて神道を説く一種の通俗神道であった。
また、京都の石田梅岩(ばいがん)は、神道・儒教・仏教・老荘思想を混成し、庶民の敬神思想をはぐくんだ。
江戸末期になると、二宮尊徳があらわれ、庶民に神道と報恩の思想を普及させた。
そのようなさまざまな神道説が流行し、庶民の神社信仰は広く展開した。

 

第12回に続く

 

白山芳太郎 プロフィール

昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。

おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。

 

 

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