二條さま 古事記のお話しの2 第三話のおまけ
第三話終了後の質問コーナーです
こんにちは。
ここからは7月8日に行われた二條さまの古事記の講座での質問コーナーです。
一緒に楽しみましょう。
『ウマシアシカビヒコジノカミ』にお米を捧げるという事ですか?
ウマシアシカビヒコジノカミという神様を自分の中に取り込んでいるという事に対する感謝をする為です。
勿論、神様に召し上がって頂こうと思って捧げることは当然なんだけれども、あれを捧げるのは、仏教でいうときの生飯(さば)と同じ様に。
禅宗のお寺に行くと、禅宗の坊主がご飯を食べる前に庭にご飯をパンと一つ投げるんです。
鳥や虫や、そういったものに食べて貰おうと、自分のところに来たご飯を一つまみ取って庭にポッと捨てる。
これを生飯(さば)と言いますが、それと同じ意味で、日本の神社とか神棚にあげるご飯は、今我々の中に取り込んでいるそのミトコンドリア、『ウマシアシカビヒコジノカミ』がいるということを確認する為にお祭りする、ということに他ならないと思います。
ありがとうを世界中に
Arigato all over the World
ご飯を差し上げるのは、何に入れたらいいですか?
神器の中に、高坏(たかつき)という神器があります。
神棚にあげる平瓦(かわらけ)のものに、高坏(たかつき)という名前がついてるものがあります。
それにあげるのが正式だけれど、高坏(たかつき)が手に入らない時はお皿で結構です。
小さな小皿で結構だと思います。
それから、色がついている方がいいのか、ついていない方がいいのか、真っ白なのがいいのか、と考えてらっしゃる方が沢山いらっしゃいますが、心の問題なので、色がついていようが、素焼きであろうが、磁器であろうが、何でもいいです。
私は、それを神にあげた後の問題なんだと思うので、どうしたらいいか、私はお庭にまくことにしています。
お水は観葉植物にあげています。
お塩は舐めることにしています。
盛り塩の塩とは?
盛り塩の塩というのは、実は、牛を寄せる為にやるんです。
だから、ご商売をやっている人が盛り塩をするんです。
盛り塩をしたからって、悪いものが入ってくるのを清めるとか、一切ないのです。
玄関に盛り塩をすると、牛がそこで足を止めてくれるんです。
そうすると、義車に乗っている人が、「牛はどうして止まったんだ。牛が塩を舐めている間は全然動かないから、しょうがない。」と、そこの店に寄るんです。
だから、悪いものを寄せるのではなくて、お客さんを集める為に盛り塩ってするんです。
色んなものを寄せる為に塩を盛るのです。
決して清める為にあるものじゃないです。
せいぜい清める為にある塩といったら、塩湯(えんとう)といって、塩のお湯を作ること。
それを撒きます。
そうすると、そこには草も生えません。
今のアルコール消毒みたいなことにもなります。
ただ生の水に塩を入れただけだと、どんどんどんどん分解されて、むしろ栄養が非常にある海のような状態になるんだけど、熱いお湯の中にお塩を入れることによってお清めになりますが、塩本来は、何の清めのものにもなりません。
ただ、商売になるから、「お清め塩」っという言葉がついちゃうけど、清まりません。
ですので、舐めていただければ大丈夫だと思います。
お葬式の時に撒く塩、あれはどこから来ているんですか?
あれは、神道の塩湯という考え方から、塩のお湯を作るのが大変な人がその場ですごくコンビニエンスにやる事です。
本当に、あれこそが風習だと思います。
玄関に入る前に塩で清めるってやっていますが、全然清まらないです。
そもそもの仏教的要素でもないです。
仏教にお塩を撒くなどという所作はないし、残念ながら、神道というかお祭りでも塩を撒くなんていうのは、せいぜいお相撲さんぐらいです。
お相撲さんは、あそこに塩を撒くことによって、怪我した時に化膿しないし、別にお清めをしている訳でもなんでもないです。
神様に、あそこの下に神様が埋まっていて、そこに生飯(さば)のようにして撒くという言い方もあるし、怪我した時に化膿しないという意味もあります。
けれども、決して清める訳ではない。
塩は清めにならない。
断言します、塩は清めになりません。
今回の『ウマシアシカビヒコジノカミ』の言葉の意味は何ですか?
「ウマシ」というのは、「美しい」という意味です。
「アシ」というのは、「芒(のぎ)のもの」という意味です。
芦原とか、川に生えている「芦」というじゃないですか。
「カビ」というのは、「それが変性する」という意味で、「ヒコジ」は男性名詞だということです。
なので、『ウマシアシカビヒコジノカミ』はオスです。
という意味だと、「美しく変性した男の神様」という意味です。
美しく変性する。
最初は米だったのが、ぐつぐつ煮ることによって、美味しいものに変性する。
身体に入れることによって熱が出来上がるという意味で、『ウマシアシカビヒコジノカミ』という単語の集合体という事になります。
意味はそういう意味でございます。
もっと本当は、「ウ」は何、「シ」は何、って、日本語の因数分解でやると、もうちょっと詳しく言葉の意味が出てまいりますけれども、大まかに言うとそういう感じです。
宿題は続けてやっているが、何も変わらないです。その後は何をすればいいのでしょうか?
今日初めての人達には宿題と言われても何かわからないですけれども、毎回来ている人に毎日お水をあげようという風に言ってるんです。
お塩とお水をあげる。
お塩は、お塩の会が始まってからですが、基本、お水をあげろと言ってるんです。
そのお水がどういう風に変性していくか、どういう風に変性しているかというのは、水自体がどう変性しているんではなくて、自分の考えがどういう風に変性してきたかという事が重要なんです。
今この状態、3回目をやって、一番上手くいってるのは、「習慣になりました。」という人がいたとしたなら、それが一番正解。
例えば、「怖くなった。」という人がいました。
要は、続けていけなくなった時、例えば病気になって続けていけなくなった時に、お水をあげるという所作は誰がやってくれるんだろう。
もしくは、それをやめてしまった事によって、何かなってしまうんではないか、となったら、水をあげることが怖くなったと言った人がいるんですよ。
これは面白いベクトルですね。
その方に言った答えはこうです。
「何も起きません。」
目の前に神様はいない。
残念ながら、神を説いておりますが、神様はおりません。
脳が生み出してるものなんですけれども、だから何にもなりません。
やめたからといって骨を折る事は絶対にありません。家が火事になる事もありません。
ただ、どういう風にして心が動いていくかという事によって、自分はどういう神を現出させるかという事に繋がっていくんです。
要は、妄想力をどれだけ膨らめるかという事になっていって、それはまず状態にするべきなんですよ。
なので、お水を続けていって、「何も変わりません。」と言ったとしたならば、それが正解です。
このまま続けていって下さい。
今回はご飯もやりました。
折角ですから、ご飯を炊いた時だけは、一番最初にご飯を捧げる。
我が家では、私がご飯を捧げる時には、弟子は全員平伏します。
もしくは、誰かに頼んだ時は、僕ですら平伏します。
それが神様に上がるまで。
そうやって神様妄想をさせていく。
目の前に神様はおわさない。
はっきり言っておきます。
なんだけど、現出できる神様があることによって、人間の行動力が俄然増えて、この行動力を神様と言うんだったとしたら、もしかしたらそれが神様だと思う。
『ウマシアシカビヒコジノカミ』の時に話しましたが、隣のあいつはよく走れるようになった。
要は神になったんですよ。
そういうことなんだと思います。
ありがとうございます。
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
#ありがとうを世界中に
#ArigatoAllOverTheWorld