葉室光親(みつちか)
葉室家3代目光頼の三男光雅の次男
こんにちは。
今日は私のご先祖さまの葉室光親卿のお話しです。
安元2年(1176年) – 承久3年7月23日(1221年8月12日))
平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。
藤原光親とも言う。
権中納言・葉室(藤原)光雅(みつまさ)の次男。
(葉室光雅:権大納言・葉室(藤原)光頼(第3代)の三男)
官位は正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位。
光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。
しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。
『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑される。
享年46。
(加古坂神社)
処刑の直前に出家して西親と号する。甲斐源氏の一族・武田信光は光親を鎌倉へ連行する途中・駿河国車返の付近で鎌倉使の命を受け、光親を斬首した。
北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという。
ただし、院宣の執筆行為と伝奏として院宣発給の事実を太政官に連絡し、それを元にして太政官においても義時追討の官宣旨が作成されていることから、公家の中でも最も重い罪に問われたと考えられている。
『中都記』ないし『心言記』と呼ばれる日記を著していたが、散逸甚だしく保存状態はあまり良好ではない。光親は封建道徳における忠臣であった。
(wikipediaより)
長池天神社は、菅原道真公及び藤原光親卿を合祀する神社。
昔より学問の神、綱引天神として村人の崇敬の社です。
藤原光親卿は承久年間に長池部落に身を秘めてながら、村人を集めて学問と武芸を伝授していたと伝えられています。
また、荒馬の欠点を直す等、馬を祈願する神社でもあり、馬が生活に欠かせなかった長池の人々の信仰も深かったと言われています。
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