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明治維新の先がけ-光格天皇の御実績

 

「長い天皇の歴史を振り返り・・・」

 

昨年(平成二十八年)八月八日、日本の全テレビ局から「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」がビデオメッセージとして、一斉に放映されました。

それを拝聴した一般国民の大多数は、今上陛下が「平成三十年ごろまでに”譲位”を強く希望されている」ことに、驚きながらも理解と賛意を示しました。

なぜ驚いたかといえば、明治以降の(戦後も)皇室典範に譲位の規定がなく、今上陛下は終身在位されると思い込んできたからです。

しかし、陛下は「お言葉」の中で、「我が国の長い天皇の歴史を振り返りつつ、これからも・・・象徴天皇のお務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ」て、江戸時代まで多くの歴代が行われてきた譲位の道を選びうると考えられたのでありましょう。

その譲位は、大化改新(六四五年)直前の皇極女帝(天智・天武両帝の生母)に始まり、今からちょうど二百年前(一八一七年)に譲位された光格天皇まで、北朝五代を含めて実に七割近い例があります。

その史上最後の光格天皇は、在位中も譲位後も大きな事績をあげられました。

そのことが明治維新の先がけになったとみられます。

 

後桃園天皇の養子として皇位を継承

 

日本の皇室は”万世一系”と称されますが、決して単純な父子相承ではありません。 

とくに光格天皇の場合、右の系図を見てもわかるとおり、異例の継承でありました。

江戸時代には、皇統の本系だけでなく、分系として四親王家がありました。

伏見宮(ふしみのみや)・桂宮(かつらのみや)・有栖川宮(ありすがわのみや)・閑院宮(かんいんのみや)の四家です。

その本系を継いだ後桃園天皇が、安永八(一七七九)年、二十二歳で崩御されると、御子に生れたばかりの皇女(欣子(よしこ)内親王)しかおられないので、その皇女がやがて皇后となられるにふさわしい支系の幼い男子を探し、急遽、八歳年上の閑院宮兼仁(ともひと)親王を故・後桃園天皇の養子として推戴しました。

それが光格天皇にほかなりません。

その前後から大きな役割を果たされたのが、後桃園天皇の叔母にあたる後桜町女帝(上皇)であります。

女帝は弟の桃園天皇崩御後、その遺子が成長するまで八年間皇位を預り、譲位後も甥・後桃園天皇の訓育に努められましたが、甥の急逝により支系から光格天皇を迎え、再びその訓育に力を尽くしておられます。

たとえば、天明七(一七八七)年、全国的な大飢饉に見舞われ、京都でも窮民たちが御所へ「お百度詣」に押しかけました。

すると、後桜町上皇(四十八歳)は「仙洞(上皇)御所よりりんご三万、一人へ一つあて下された」(国立公文書館蔵「落葉集」)。

それに心動かれた光格天皇(十七歳)は、将軍・徳川家斉に対して「民草に 露の情けを かけよかし 代々の守りの 国の司は」という御製を贈られたところ、直ちに幕府が対策に乗り出しています。

これは極めて重大な転機となりました。

それまで天皇が将軍に注文を付けるようなことはなかったのですが、これ以降、幕府は朝廷の意向・希望を尊重するようになりました。

(文参考:道徳科学研究センター教授 (研究主幹)所 功(ところ いさお)著)

 

ありがとうございます

 

百二十五代 今上陛下の昨年八月八日のお言葉。

日本国民にとってさまざまな受け取り方があったかと思いますが、陛下の心情はいかようなものであったのでしょうか。

私ごときが陛下のお心内を察するなどおこがましいことではありますが、誰よりも今の日本、そして世界を考えていらっしゃるにちがいないと思います。

私たちが、今、何をしなければ、していかなければならないのか。

いまだに譲位を退位と報道するメディア、マスコミ。

神道立国のこの地において、あらためて考えなければいけない時がきているのではないでしょうか。

陛下のお言葉をそれぞれが考えながら、本当に心優しき人たちから、これからの子どもたちのための良き世をつくるために精進していきましょう。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

これからも、宜しくお願いいたします。

 

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