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今日の言葉 「不露頂(ふろちょう)」

 

こんにちは。

八百万、目に見えないものまでにも「ありがとう」と思える和の心が、この星をいつも笑顔あふれる幸せな毎日にすると思っている葉室です。

今日は浄住寺にたくさんある神仏の本の言葉からです。

禅問答、いつも話を聞いてもとても難しい内容。

読んでみても難しいことがたくさん。

今回もわからないことがいっぱいかもしれませんが、自分なりに考えてみることはとても大切。

それでは、どうぞ。

 

不露頂(ふろちょう)

唐の時代、臨済の弟子・志閑(しかん)は、末山了然(まつざんりょうねん)尼の門をたたいた。

その時の問答。

志閑「末山とはどんな山ですか」

末山「不露頂」(山頂をあらわさぬ。山頂はあらわれぬ)

志閑「山の中にはどんな人が住んでいますか」

末山「男や女ではありませぬ」

志閑「師よ。あなたは女人ではありませんか。なぜ変化なさいませんか」

末山「私は、狐の化け物ではない」

頂の露、不露は、山の知るところにあらず。

けだし、この問答、まことに甚深微妙の味わいを秘めている。

(題字・説明:駒沢女子短大元副学長 東隆眞(あずま りゅうしん)さまより)

 

固定観念をすてる

中国の志閑禅師は、臨済禅師門下の高僧でした。

この臨済が或る時、志閑が来るのを見て彼の手を取って呼び止めました。

すると志閑は「領(わか)りました」と答えたので、臨済は手を放して言った。

「一棒をくらわすところだが、暫く許してつかわそう」

つまり暫くここにいて修行することを許すという意味です。

以来志閑は臨済の弟子となりました。

暫く経って臨済の所を離れ、末山(了然尼)の尼寺に行脚した時、末山は志閑にこう尋ねました。

「どこの路から来られたのですか」

どの道場から来たかという意味です。

すると志閑はこう答えました。

「路口から来ました」と。

路口というのは「きれいな所」という意味です。

末山はいました。

「どうしてあなたはその路口を蓋して来なかったのですか」

きれいな所とか、汚い所という考えを超越しないのかという意味です。

これに対して志閑は一言も答えることができませんでした。

そこで直ちに末山を礼拝し、彼女を師として学ぶことにしたのです。

後に一山の住職となった時、志閑は修行僧達に示してこう言いました。

「私は臨済老人の所で杓の半分を得、末山の所であとの半分を得た。ともに頂いて腹一杯になり、今は満腹し満ち足りているのである」と。

今この言葉を聞き、昔のあとを振り返ってみると、末山は高安大愚の高弟であり、その法脈を継ぐ力があったから、志閑大師を教える「嬢」となったのです。

臨済は黄檗希運(おうばくきうん)禅師の後継ぎであり、その修行の力によって志閑の「爺」となりました。

「爺」とは父という意味であり、「嬢」とは母という意味です。

しかし禅師が末山尼了然を求めて礼拝師事したことは、まことに勝れた志の実例でありました。

又後学の修行者の学ぶべき節操でもあります。

このように男女の相にとらわれぬ態度は、固定観念を脱却した勝れた修行のあり方だと言うことができるのです。

(参考:真実の自己を求めて

 

ありがとうございます

禅は神道に通じると利休は言いました。

禅というものをもっともっと学んでみたいと思っています。

現代は、昔からかな、見えたものがすべてで決めつけてしまってきました。

固定観念から成り立ってますね。

それも多くの人が声をそろえれば、それが新しい固定観念になってしまいます。

何が正しいのか悪いのか。

正しいことも悪いこともないのかも。

見方は四方八方、360度、でもこれは三次元でのこと。

目に見えない世界まで心から見えるようになると、すべてが些細なことにしか見えないかもしれません。

悩み多きこの世の中、めんどくさい現代。

自然にかこまれた場で目を閉じて、心の声を聞いてみるのが一番素敵なことかもしれませんね。

 

浄住寺にいつでもお越しください。

お待ちしております。

 

 

「ありがとう」がもっともっといっぱい溢れるように和の素敵は続けてまいります。

今日も読んでいただきまして、ありがとうございます。

 

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